カテゴリー別アーカイブ: theory

自分で自分の答えを見つけるためのサポートシステム

昨日は池尻大橋のマクロビオティックレストラン「キュイジーヌ・エ・サンテ・リマ」にて、へるしー君の会。

いつものようにマクロビオティックの印象をリサーチしてきました。

「日本食に近い感じ」
「哲学的な感じ」
「ベジタリアンは砂糖は気にしないけど、マクロビオティックはとらない」

などなど、みなさんご意見ありがとうございました。

そんな中で、「砂糖以外の甘味料、はちみつ、甜菜糖、メイプルシロップなどはいいのでしょうか?」という質問がありました。

これは、この業界では本当によくされる質問で、誤解されているところですが、まずマクロビオティックは「食戒律」ではありません。

なので、「何を食べていいとか食べてはいけない」という決まりがあるわけではありません。

自分の体質や体調に対して、「それは陰性なのか陽性なのか」を考えて、自分にとって甘味料が陰性すぎるのであれば、砂糖だろうがはちみつ、甜菜糖、メイプルシロップでも穀物の甘味でない甘味料は、ほぼ陰性ですので、とるべきではないだろうとなります。

砂糖でも精製されているかによってや、はちみつ、甜菜糖、メイプルシロップもそれぞれ陰陽が違います。

人によっては、時々砂糖をとっても大丈夫な人もいれば、甜菜糖やメイプルシロップでも体調を崩す人もいます。

この「人それぞれ」という捉え方が厄介なのです。

現代教育に慣れている人は、「それぞれの人にそれぞれの答えがある」ということに「まやかし感」と「しちめんどくさ感」を覚えます。

なぜなら自分で答えを見つけくてはならなくなるからです(笑)

マクロビオティックは、まさにその「自分で自分の答えを見つける」ためのサポートシステムなのです。

と、まぁそんなことくだくだ言ったところで、やっぱり「めんどくさっ」、いやむしろ「めんどくさっ」って思われますよね(笑)

決して答えを教えない教育

昨日は、池尻大橋のマクロビオティックレストラン「キュイジーヌ・エ・サンテ・リマ」で、学習院女子大学で「フード・コンシャスネス論」を世界に展開する品川明教授と打ち合わせ。

「フード・コンシャスネス」とは、人類共通の営みである「食」を通じて、五感や考える力、そして生きる力を高めるさまざまなワークを提案している食教育プロジェクトです。

http://www.foodcon.org/

品川先生の面白いところは、桜沢先生と同じく、「決して答えを教えない教育」を実践しているところ。

生徒に感じさせ、考えさせ、生徒同士でそれぞれの答えを共有することによって、その人の人生にとっての本当に「有用な概念」が形成される。

先生が教えて生徒が覚えるだけであれば、まったく役に立たない「架空の概念」としかなり得ない。それは、先生の自己満足でしかないと(笑)

私は最近、小学1年生位の子どもたちに会うと、必ず「1+1はなあに?」と聞くようにしています。大概の子どもたちは元気よく「2」と答えます。

私:ブ~

子供:なんでなんで?

私:答えは田んぼの「田」

子供:ずるいずるい!じゃあ「6」

私:なんでなんで?

子供:棒を全部足すと6本!

私:すごいすごい!じゃあ「3」。お父さん1人とお母さん1人で、子供ができて3人になるから(笑)

そうやってると、たくさんの「1+1」の答えが生まれてきます。

「1+1=2」はあくまで数学的な架空の概念です。実際人生においても、社会においても、自然や宇宙においても「1+1=2」にならないことがほとんどなのです。

「1+1」には無限の答えがある。この想像力を育むことが本当の教育(教え育む)なのかもしれません。

品川明先生の「フード・コンシャスネス」には、食を通じて想像力や感性を高める面白いワークがたくさんあります。

マクロビオティックの普及においてもぜひ参考にしていきたいです!

食=food=風土

昨日はマクロビオティックの料理教室「リマ・クッキングスクール」の中級11回目。玄米おかゆパン、コーンスープ、車麩ナゲット、切り干し大根サラダ、白玉のごまみそソースでした。

マクロビオティックにおいて「食」とは、二つの意味があります。狭義には私達が食べている「食べ物」、広義にはその食べ物が育つ「環境」そのものをいいます。

「食=food=風土」とはよく言ったものです(笑)

マクロビオティックでは、私達を取り巻く環境は、物質を取り巻く空間と捉えられ、その物質を成り立たせているのは空間そのものであると考える東洋思想が基底にあります。

つまり私達と環境、物質と空間は、切り離すことができないことが前提となっています。

よくマクロビオティックは「疑似科学」とか「ニセ医学」とかご批判をいただくのですが、そんな時私は「はい、そうですよ」としか答えようがありません(笑)

「科学」や「医学」の基底にある西洋哲学は、物質と空間を切り離すことが前提となっています。

病院は外環境を遮断しますし、実験は研究室の中や試験官の中で、細心の注意を払って空間を遮断します。

ですから「病気」や「症状」に対しても、科学や医学とマクロビオティックでは、まったく捉え方が違うのです。

マクロビオティックは、「病気」や「症状」は、環境と自分の間でのバランスが崩れている信号機とみます。

だから環境と自分をとりもつ狭義の意味での「食」をまず見直すことことから、信号機を赤から黄、そして青へと戻し、再び環境との調和を復帰して行きます。

一方科学や医学は、「病気」や「症状」を異常を起こした部品として、最新の技術で撤去することを信条としています。

ですからまったく前提や目的が真逆的に違うのです。
ただ結果的副産物的にマクロビオティックで「病気」や「症状」が消えてしまうように見えることがあります。

だから、西洋思想を基底に考える人には、根拠のない「疑似科学」とか「ニセ医学」に見えてしまうのも、まったく仕方のないことなのです!

松果体と玄米の珪素、そして噛むという陰陽の振動の関係

昨日はマクロビオティックの料理教室「リマ・クッキングスクール」中級第10回、土鍋炊き玄米、ごま風味のそうめん入りみそ汁、蕪のそぼろあん、そして鉄火味噌でした。

てんこ盛りの玄米ごはんに鉄火味噌で、とにかく良く噛んで食べると玄米の甘味が身にしみて来ます。

マクロビオティックでは、とかく「良く噛む」ことが奨励されます。消化を促すだ液の効用は、癌予防も含め一般的にもさまざまな効用がうたわれています。

でも私は「玄米を噛む」ことについて、若干トンデモな仮説を持っています。

マクロビオティックの提唱者、桜沢如一は「玄米が最高判断力を養う」といいました。最高判断力とは、いわゆる直感やインスピレーションであり、無限の宇宙意識とのアクセスにより、さまざまな状況で瞬時に最高の判断ができることをいいます。

ではなぜ「玄米」が、無限の宇宙意識とのアクセスを促すのか?

私はこれは脳の中心にある松果体と玄米の珪素、そして噛むという陰陽の振動の関係として捉えています。

松果体は珪素(シリカ)を主成分とした松の実ほどの大きさで、メラトニンというホルモンの分泌をする器官ですが、昔から第三の目といわれ、とてもスピリチュアルな世界観の中で語られて来ました。

松果体はいわゆる私達の脳が、無限の空間から情報をキャッチするアンテナであり、半導体のような情報変換器として捉えられます。

そしてこの松果体の栄養になるのが、植物の中に含まれる珪素成分です。玄米や雑穀などには、この珪素がふんだんに含まれ、なお且つ、火で良く炊くので本来吸収されにくい珪素が吸収されやすい水溶性に変換されます。

この水溶性の珪素と良く噛むという陰陽の振動が脳の中心に送られ、松果体を見事なクリスタルへと成長させて行くのです。

えっ、ほんとですか?

いや、玄米を良く噛んで食べていたら降りてきた直感なので、まったく根拠はありません(笑)

マクロビオティックにおいて「玄米」は、一つの座標軸

今日はマクロビオティックの料理教室「リマ・クッキングスクール」の初級5回目。私にとっては、2期に渡った全12回の最終日でした!

メニューは、発芽玄米と玄米をそれぞれ土鍋で炊き食べ比べ、お味噌汁と車麩煮、なますと葛餅でした。

仕事がらみとはいえ、15年たずさわってきたマクロビオティックの活動においても初心に帰るとてもよい機会になりました。

とにかくあらためて「玄米」と向き合う毎日。
とかくマクロビオティックは、「玄米にこだわりすぎ」とか、「玄米教」とかいわれるとこもあります。

しかしながらマクロビオティックにおいて「玄米」は、一つの座標軸です。玄米をゼロポイントとして、自分が陰性、陽性のどちらに傾いているかを知ることがマクロビオティックのメソッド(方法論)なのです。

だから、陽性に傾いていれば、玄米ではなくより陰性な分搗き米や麦やうどんを食べればよいし、陰性に傾いていれば、雑穀を入れたり、そばなどを食べればよいわけです。

だから「玄米を絶対に食べなくてはいけない」なんて言っているのではありません。環境によっては玄米を食べられない所ももちろんあります。しかし、どこまでも「玄米」がすべての食材の中での中心軸であると考えるのがマクロビオティックなのです。

中心軸を定めることによって、私たちは陰陽を捉えることができるようになります。マクロビオティックを実践する者にとって「玄米と陰陽」は、世界の荒波に溺れないための「救命胴衣」であり、世界を自由に泳ぎまわるための「サポートアイテム」なのです。

だから「また玄米・・・」とか言わないでくださいね(笑
とにかく玄米と向き合うことから始めるのが、マクロビオティックなのです。

マクロビオティックの身体論(1)

最近、「日本人の身体観」についてつらつらと考えています。
もともと江戸時代までの日本人には、英語でいうところの「Body」である「身体(からだ)」という概念はなかったそうです。

「身体」は「殻(から)」に由来し、魂の抜けた死体を意味していたそうです。

『「身」の構造―身体論を超えて』(講談社学術文庫)を著した哲学者、市川浩は、日本人の身体観として「身体」は、単に、皮膚の内側に閉じ込められた「物質」としての「肉(み)」ではなく、皮膚の外まで拡がり、世界の事物と交わるものであるとし、「物心二元論」に基づく考え方である「身体」の代わりに「身(み)」という言葉を使いました。

マクロビオティックの身体観もまさに、この東洋的な哲学の流れである「身(み)の概念」に根ざしています。

■マクロビオティックのモノの見方

では、ここであらためて「マクロビオティックのモノの見方」をおさらいします。

MacrobioticBody&Mind1

まずここに何でもいいのですが、一つの「モノ」があるとします。
このモノを見る時、マクロビオティックでは「魔法のメガネをかけて見る」というのですが、陰陽の視点から見ていくことになります。

MacrobioticBody&Mind2

上図が「マクロビオティックの物体認識モデル」です。
マクロビオティックでは、どんなモノ(物体)を見る時でも、そこに働いている「陽」という求心力と「陰」という遠心力の働きを見ます。

このモデルで見るとモノ(物体)は、周囲の空間から「陽」という圧縮・凝集する求心力と周囲の空間へ膨張・拡散する遠心力のバランスで成り立っていることがわかるます。

つまり目に見えるか「形」をつくっている「陽のエネルギー」と、目には見えないけれど、その「形」の土台となっている空間である「陰のエネルギー」は不可分というか一体として認識するわけです。

マクロビオティックの原理である「身土不二」や「一物全体」もこのモノの見方が基本として成り立っています。

特に「身土不二」は、身体と環境(空間)は二つに分けられないという意味になりますが、マクロビオティックの身体観を端的に表している言葉となります。

■陰陽でみる「西洋的な身体観」と「東洋的な身体観」

この「モノ(物体)」の見方は、もちろん「身体」の見方にも反映されます。

西洋的なモノの考え方は、陽である求心力が優位に働きます。逆に東洋的なモノの考え方は、陰である遠心力が優位になります。

ですから西洋人は、空間から身体を切り離し物質としての「身体」を対象にした科学や医学が発達しますし、身体の個性や独自性が重んじられる個の文化を形成します。

逆に東洋人は、「身体」よりも、それを成り立たせている空間を氣や精神として捉え、身体と空間を分離せずにそのバランスをとる科学や医学を発達させました。

とくに陰性文明の極にあった日本人は、陽である身体よりも、陰である空間をより意識していました。ですから、空間である環境を整えることで身体の健康が成り立つという「養生法」が発展し、身体に直接的に働きかける科学や医学はあまり発展しませんでした。

下記図は、日本人の身体観を端的に表す「温泉混浴モデル」です。

MacrobioticBody&Mind3

明治に入って廃止された日本独自の文化や慣習には、日本人の本質を考える上でとても大切なものがあります。

明治5年に廃止された「太陰太陽暦」と「陰陽道」。
そして、たびたび出されたのが混浴禁止令です。江戸時代では当たり前だった温泉や銭湯での混浴は、果たして西洋人が考えた野蛮な習慣だったのでしょうか?